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『映画 聲の形』の演出について覚え書き -良かったところ32箇所-

僕があまりにも映画聲の形を絶賛するので友人たちから「文章で説明して」と言われたので、演出面を中心に良さを感じた点を思いつく限り書いてみました。
(演出の解釈には『聲の形 公式ファンブック』や各種インタビューなどを参考にしています)
 
(1) 全体的に簡潔に言うと
『映画 聲の形』は映像・脚本・音楽のすべてが相互補完的に作品を支え合っているところが最大の評価点。
映像…京都アニメーションの精緻かつポップなアニメーションと、山田尚子監督お得意の柔らかな光と色づかいの効果。
脚本…原作のストーリーを大きく崩すことなく、しかし一本の映画として大胆に物語を再構成したこと。
音楽…牛尾憲輔の繊細で暖かな音楽。また、演出と深く結びついている。
特に映像と音楽が切ないストーリーの辛さを緩和しつつ純度を高めている点が素晴らしい。
もちろんキャラクターも良い。複雑な心理からくる豊かな内面を備えており、高度なレベルで生命を吹き込まれたキャラクターたち。視聴者によっては嫌悪感をもつこともあるだろうが、単なる不快さとは異なる一種の共感を引き起こすものである。
 
(2) 作品のテーマについて
映画聲の形のテーマは「自分と向き合うこと、他人と向き合うこと」であると考えている。例えば将也の場合は、自分を否定し他人を排除し、友人に対しても一歩踏み込むことができずにいたが、硝子との一件を経て自分自身を見つめ直し、他者へ耳を開くに至る。
いじめや聴覚障害は本作の重要な要素であるが、前面にあるテーマではない。公式ファンブックにて原作者の大今良時は"自分としては「いじめ」や「聴覚障害」を主題にしたつもりはなくて、「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」を描こうとした作品です。"と述べている。
 
(3) 映画の最初と最後に提示される「光の点」の演出
多様な解釈ができ、含みが大きい演出。将也と硝子に焦点をあてることを意味するという解釈や、二人の物語を覗き見する感覚、希望のイメージを想起させる。山田尚子監督は望遠レンズ風に登場人物を映す演出を用いるのが特徴で、「覗き見」という感覚には一理ある。ここに限らず、光と水の表現は本作の見どころのひとつ。
 
(4) 水の表現
冒頭の水の波紋の映像や、鯉、川、涙といった水まわりの表現が本作では強く力を入れて作られている。その色合いなどにも注目すると作品がより楽しくなる。
 
(5) 童謡『怪獣のバラード』
作中で度々使用されている。海と愛を求めて砂漠を旅立つ怪獣の歌。作品のイメージと合致するところが大きい。
 
(6) 国語の授業
植野が「僕は悪くない」と朗読しているのは重松清『カレーライス』。父親と喧嘩した息子が葛藤しつつも仲直りする物語。和解と成長のテーマが作品と合致している。
 
(7) 筆談用ノート
物語上きわめて重要な意味を持つ。投げ捨てられた筆談用ノートを拾いに硝子は貯め池に入る。しかしその後将也が池に落とされたときもノートはそのままなのはなぜか?
硝子にとっての筆談用ノートはクラスメイトとのコミュニケーションへの期待がこめられたもの。それを手放すことはその期待を諦めることを意味している。このとき小学生の硝子は「死にたい」という気持ちになった(回想で一瞬表示される手話がこれ)。また、病院で目を覚ました将也が硝子に対して「夢の中で諦めようとしてたことを知った」と言っているのはこのこと。
しかし将也はそれを拾って硝子のもとへ返しに来て、友達になりたいと言う。それはいじめられながらも懸命に相手と友達になろうとした小学生の時の硝子の気持ちに報いるものである。だから硝子は感動して涙を浮かべたし、川に落としたときに飛び込んでまで拾おうとするほど大切なものになった。
 
(8) 将也の母の耳の血
将也の母が硝子の母に謝罪するシーンの最後で将也の母は耳から血を流している。これはピアスをひきちぎった傷によるもの。原作者の大今良時は"「同じ痛みをもって償う」と、自分でやったのかもしれません"と述べている。(公式ファンブックより)
 
(9) 手すりの音(振動)
手話教室で最初に将也と硝子が再会するシーンで、しゃがんで隠れる硝子を将也が見つけるとき、手すりをつかむ振動で硝子が将也に気づく演出がある。これは後半で将也が病院を抜け出して橋の上で硝子と再会するシーンでも同様の演出があり、明確に反復の表現として演出されている。実際、字幕版では [手すりに当たる音] と明示されている。しかし両者の意味合いはやや異なり、後者はより深いレベルで二人が再会し向き合うシーンとなっている。同じ方法でシーンの違いを際立たせる秀逸な演出。
 
(10) 「泣かないで」という台詞
将也はよく「泣かないでよ、西宮」「泣かせたくない」「西宮には西宮のこと好きになってもらいたいよ」といった発言をする。こうした言い回しから将也が硝子のことをどう思っているかがよく表れており、巧みな台詞づかいとなっている。
 
(11) ホットプレートの音
音響へのこだわりが見えるポイント。
 
(12) 将也の襟から出ている服のタグ
将也の服装は常に襟から裏返ったタグがはみでていたり、シャツの裾が片方だけ出ていたりする。これは将也の「自分を知ろうとせず、理解が及ばない」という人間性を表している(公式ファンブックより)。
 
(13) 永束くんの顔のバッテンが取れるシーン
永束くんの顔のバッテンが取れるシーンではキーンという耳鳴りのような音が用いられている。突発性難聴の症状の耳鳴りのような音は、周囲とのコミュニケーションを拒絶した将也の状況を表現するものである。あるいは耳をふさいだ将也が初めて心を許したときの、痛みを伴いつつも耳が開かれることを表現しているのかもしれない。
 
(14) 対称的に描かれる将也と硝子
将也と硝子は対称的な人物として描かれている。例えば友達の資格について「同じこと考えてた」という硝子の台詞や、ところどころのカットで二人は鏡写しのように配置されている。共に自分のことが好きになれず、他者とのコミュニケーションに壁を作っている点も同じである。だからこそ将也にとって硝子の問題を解決することは自身のことにも関わってくるのである。
 
(15) 「もとは俺が悪いんだし」
なりすましでSNSに飛び込みの写真をアップされるも、将也は怒るどころか自分が悪いと言い出す。将也がいかに後ろ向きの思考をしているのかがよくわかる台詞。「俺って最低な人間だから」も同様。
 
(16) 「姉貴は?」
極めて細かいところだが、結弦を家に泊めたときの夕食の場面で将也が姉の不在について一言触れており、直前に姉の存在を描写した後に夕食の場にいないことで生じる不自然を回避している。こういった非常に細かい一言の台詞だがきちんとエクスキューズが行われているのは感服する。
 
(17) 硝子と病院のシーン
映画で追加された、本作で一番わかりにくい描写。硝子と付き添いの祖母が病院で医師になんらかの告知を受けて、硝子が自宅で意気消沈する場面がある。公式ファンブックに解説があり、これは硝子が右耳の聴力がさらに低下していることを知らされ、周囲の人の声がますます聞こえなくなることに落ち込んでいるというシーンとなっている。このとき自分がなぜ思い悩んでいるのかを考えたことで、硝子は将也に対する恋心に気づくことになるのである。(そこからポニーテールと告白のシーンに繋がる)
 
(18) ポニーテール
耳を出す=他人の声をよく聞こう、相手と向き合おうとする硝子の意識の表れ。(公式ファンブックより)
 
(19) ジェットコースター
これも映画で追加された、きわめて白眉な演出。将也が佐原と隣同士でジェットコースターに乗るシーンで、佐原は「昔は弱虫で乗れなかったが、怖いかどうかは乗ってから決めることにした」と述べた後、付け足すように「やっぱりまだ怖いけど」と言う。しかしその姿はどう見てもそうした幼さや恐怖を克服したものであるように映るため、自分を変えられずにいる将也にとって劣等感を感じさせる台詞になっている。実際、下りのジェットコースターで手すりから手を離しスリルに身を任せる余裕のある佐原に対して、将也は固く手すりを握って目を開けられないという対照的な描写がなされている。佐原は変化・成長への志向が非常に強いキャラクターであることに注意。
 
(20) 「私は私が嫌いです」
硝子が自分の本心を吐露した台詞。将也と同様、硝子は非常に自己評価の低いキャラクター。両親が離婚したのも、小学校のクラスの雰囲気を悪くしたのも自分のせいだと考えている。それは他人とコミュニケーションができない、変化・成長できない自分のことを責めているため。その硝子が将也に助けられたことで変わろうとし、また佐原に対しても「これから変わる」と強く言っているのである。
 
(21) 橋の上で喧嘩するシーン(1)
橋の上で将也たちが仲違いするシーンでは、あえて各人の表情をフレームアウトさせることで逆に想像力を働かせるとともに過度に嫌悪感を生じさせない演出がなされている。
 
(22) 橋の上で喧嘩するシーン(2)
映画聲の形において最も優れていると思った演出。
橋の上で植野たちが口論になり、そこで将也は「俺が全部悪い」と言い払う。しかし一方で直後に植野たちに対して非難の言葉を述べ、拒絶してしまう。ここでの台詞は原作と大きく異なっており、重要。自分が悪いと言いつつなぜ彼女たちを非難するのか?それは植野たちが将也の一面を投影したキャラクターであり、彼女たちを批判することによって鏡写しに自己嫌悪をぶつけているからである。「自分勝手」「弱虫」「自分がかわいいだけ」「よく知りもしないくせに」「部外者」といった非難の言葉はそのまま将也自身や将也の硝子に対する行動にもあてはめることができる。サブキャラクターと将也・硝子の関係性を強めるとともに重層的なシーンに仕上げた脚本に恐れ入った。
 
(23) いとの葬式
いと(硝子・結弦の祖母)の葬式にて母親が泣いているところを結弦が目撃するシーンが追加されている。原作では目にしておらず「涙ひとつ流さない」と憤っていたことを踏まえると一種の救済であるように思われる。
また、式場を飛ぶ蝶はいとの魂のメタファー。
 
(24) 花火の音(振動)
見たままなので割愛。映画で追加された最も美しいシーン。
 
(25) 花火大会の別れ際の手話
硝子がよく使う「またね」の手話ではなく「ありがとう」と言っている。
 
(26) 硝子を引き上げるときの将也の台詞
「もう嫌なことから逃げたりしません」「明日からみんなの顔ちゃんと見ます」「声も聞きます」という台詞は、自分自身と向き合うこと、他者と向き合うことという本作のテーマそのものである。
 
(27) 将也の入院中の夢(1)
将也が入院している間、硝子と将也は同じ夢を見る。このときの音響は2人が見ている夢それぞれを表現するためスピーカーの左右から異なるノイズが出ている。
また、ここでも耳鳴りのような音が使用されており、補聴器のノイズを表現している。
 
(28) 将也の入院中の夢(2)
夢の中の「火曜日が終わる」という台詞は、硝子と将也が一緒に鯉に餌をやる日が毎週火曜日だから。それが終わるということは二人の別れに繋がる。
 
(29) 「君に生きるのを手伝ってほしい」
自己評価が低く、自分の存在意義を見いだせない硝子にとって福音となる言葉。
 
(30) 文化祭のカフェのBGM
将也のクラスが文化祭で出している「宇宙喫茶」では、将也が永束くんとフードコートで友達の定義について相談していたときと同じBGMが流されている。これは永束くんにとっては将也との友情のテーマであり、将也がクラスに来ることをあの曲をかけて待っているというシーンになってる。(牛尾憲輔インタビュー http://www.excite.co.jp/News/bit/E1475063249559.html より。他にも劇伴の演出との関わりについて多く語られており、非常に興味深い。必読)
 
(31) 植野と硝子の手話のやりとり
植野が手話で「バカ」と硝子に言うシーンでは手話の指文字が間違えており、「ハカ」になってしまっている。それを硝子が「バカ」と訂正しているのだが、一見するとお互いに言い合いをしてじゃれあっているように見えるのが面白い場面となっている。
また、植野は硝子のことを嫌い許容することができなかったが、ここに至り相手を理解し受け入れることができるようになったシーンでもある。原作においては最後まで植野は硝子のことを許容することができずにいたのに対し、映画版では良い形での着地を迎えている。原作者の大今良時は公式ファンブックにて"植野が硝子に謝ることではなく、「私たちって、昔、仲悪かったよね」と、そんな感じで語り合える日が来ることが、植野にとっての、2人の関係におけるゴールだと思います。"と述べているが、映画版にて二人はついにゴールに到達したのだと思う。
 
(32) 将也の涙
ラストシーンで将也が流す涙の色は特に色彩豊かに描かれている。涙の色には大変なこだわりがあったとのこと(スタッフトークより)。
 

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